

HOME > 社長コラム 石のことば
『閉校』という言葉はあまり使うものではないですが、意味は分かります。
しかしながら、その言葉の中に含まれた心の思いは、今回それを実際に体験して初めて知ったような気がします。
実は44年前の桜が散り始めた春の日に初めて社会人として赴任した先の小学校から、この春で68年の歴史を閉じて学校が無くなるという通知が届き、多少重い気持ちと幾ばくかの懐かしさを胸にその閉校式に参列してきました。
場所は石巻市の外れ、旧荻浜村の先の更に奥の半島にあり、牧浜・竹浜・狐崎浜・鹿立浜・福貴浦浜の5漁村の為の小学校で、私が赴任した往時には全校児童53人の学校でした。
開校当初の一番子供の多かった時代は158名居たというので、へき地ではあってもそれなりの規模の学校でした。
それが、現在は6年生の女子2名だけの在校、そしていよいよ4月には児童数0という事であれば、閉校も致し方ないのですが、、、、
式典に参列しながら、若かりし頃の自分と純真な子どもたち、そして当時の心象風景を思い浮かべて感無量の数時間を過ごしました。
私が最初に受け持ったのは4年生10人のクラス(男8人、女2人)で、二年後にもう一度彼らが6年生になる時再度担任したので、この小学校に在籍した3年のうちの2年間この児童たちを受け持ちました。
よほどお互いに印象深かったのか、その後もこの子たちとは連絡を取り合っていて、男子の3人の結婚式には主賓挨拶をさせてもらいましたし、のちに高校の教師になった教え子には「先生の会社で募集しているなら、とても良い教え子がいるので紹介する」と言ってくれて入社してきた『教え子の教え子たち』は今も会社で中心的な役割を担って頑張ってもらっています。
この頃の自分を振り返ると、けっこう破天荒で今では赤面ものの行いもあったと思います。
一つ例にとると、その辺りは地方なだけに(時代的にも)PTAとの地区懇談会というのが1年に1回各漁村5か所それぞれで行われて、お父さん・お母さんと教員とで海の幸を前に多少のお酒とともに懇親・懇談会をするのが恒例でした。そこで私は地区のお父さん方と意気投合して、そのままお誘いに乗って児童の家に泊まらせてもらい翌朝子どもたちと一緒に歩いて学校に行ったりしました。今では大問題でしょうし、当時も校長先生から厳重注意がありました。
でも、その漁村の子どもたちは朝は両親ともに早朝から牡蠣むきやら漁やらで不在の中、自分たちで朝食を摂って片付けし、それから同じ漁村の子どもたちといわゆる集団登校のように誰からともなく声がけし集めて、そして約50分の坂道を登って登校する。そんな実態を学校で知っている、子どもたちの生活、学校以外の実態を知っている先生がいないので個人的には優越感を持ったりもしていました。
また、当時は男子には部活動として野球部というのがあり、地区の少年野球大会という漁村の子どもたちにとっては数少ない視野が拡がる活動があったのですが、女子には何もなくてそれまで女の子たちの活動の場すら無く相談する機会もなっかようでした。
私が赴任した年に、当時6年生だった活発な女の子が、私が年齢的に近く(いつの時代でも小学生からすれば、校長先生、教頭先生、教務主任の先生方はお父さんと云うよりお爺さんに見えたことでしょうから)若い新任なら話し易かったのかも知れません。「何か女の子の活動をしたい」と直訴してきて、それでミニバスケットボールチームを作ることになりました。
当時のルールは5分の4クオーター制で10人の登録選手を全員1回は出さないといけなかったのですが、普通の小学校なら6年生の中のそれも運動神経の良い体格に優れた子を選抜して選べるので、どの子を出しても問題無いし、仮に休んだり怪我したりした子がいれば補欠選手はいくらでも補充できる状況です。
ところがこの東浜小学校は当時、女子の数は6年生2名、5年生6名、4年生2名で、4年生以上の全女子児童を入れて初めてチームとして登録出来るぎりぎりの数です。
怪我人が出ても補欠選手もいません。さすがに3年生の女子は6年生と同じコートには立てさせられません。何とか大手校とまともに試合するには、、、
とにかく考えて悩んでミニバスケットに明け暮れ熱中していた毎日でした。
また、当地区(広域石巻圏)は県下でも強豪が集まるミニバスケットの激戦区で、通常強豪校はAチーム5人、Bチーム5人と固定していて、試合の相手によってA・A・B・AとかA・B・A・Bとか5人と5人のメンバーを何ら考慮の必要なく規定の10人1回出場義務を果たしていました。
こちらは、大手強豪校と同じ戦略では到底かなわないので、10人をそれぞれ役割に合わせて4チーム作り、このクオーターは攻撃主体、このクオーターはロングシュート主体(当時は未だロングシュートでも3ポイントにはならなかったですが)、このクオーターは守備主体やボール保持主体など、クオーター毎に高度な戦略が必要でした。
この時に選手の組み合わせ、スキルの組み合わせ、戦況によって変える柔軟な人材登用など、今の会社経営の基礎を知らずに学んだのかもしれません。
出場1年目は抽選の組み合わせくじも良かったのと、その子たちが私の戦術をよく理解し自分のその時その時の役割を実践できたのと、持ち前の漁村の女の子の勝気さでルーズボールをほとんどものにし、何と初出場第3位と学校始まって以来の大ニュースとなりました。
翌2年目は5年生女子6人が6年生となり、練習試合でも勝ち続けて、父兄や地区の住民まで熱が入り、とんでもない熱気に包まれました。地区大会決勝戦の体育館には漁船に靡かせる大漁旗が数十枚持ち込まれ、地区を挙げての大声援となりました。
決勝の相手は当時県大会で優勝し全国大会に出場した女川二小で、実力的には遠く及ばなかったものの、第2クオーターまでは同点で推移し子どもたちも必死にしがみつきました。
結果は栄えある準優勝!!!今でもこの時の子どもたちがあの舞台の晴れやかさ、へき地の学校で何か鬱積した気持ちを発散しやれば出来るという自信など、今でも心に残っていると言ってくれます。
3年目は6年生2人になってしまいベスト8止まりでしたが、その後も東浜小学校のミニバスケはしばらくの間小さな強豪校として地区の伝統となりました。
そのきっかけを作ってくれた最初の6年生の女の子菅野有美子さん(敢えて名前を出させてもらいます)は、初代のキャプテンで、後輩から慕われて、東浜小学校女子ミニバスケットチームの提唱者・創設者です。いつも明るく心身ともに元気で中学校に行って部活動にも熱心に取り組んでいましたが、中学2年生の時に白血病を患い中学3年に上がる少し前に惜しまれながら短い命を終えてしまいました。
亡くなる2週間前に病院にお見舞いに行って、「しばらく学校休んだから、勉強遅れないように教科書を見ているけど、分からない所は先生教えてね」と言われたのが最期になってしまいました。
これだけの地域の盛り上がりと、それに続く無形の女子バスケットの伝統を残し、後世に影響を与えたきっかけは彼女の存在こそであり、それを知っている者としてあらためて彼女の功労を讃えたいと思います。彼女の短い生涯でもこれだけ多くのものを遺せたことを誇らしく思います。
そんな諸々の思い出が心の中に去来し、現実の閉校式とそして当時の心象映像とが重なり合って、何とも表現のできない半日を経験しました。
なぜか昔話になってしまったので最後は、やはり「石のことば」に合わせて話をまとめたいと思います。
閉校式後に行われた閉校記念モニュメントの除幕式では、白御影石の台座に黒御影石の記念碑本体。
そのおもて面には校舎と校歌と地域行事の獅子舞が彫刻され、裏面には学校の歴史を刻んで、そしてそれぞれの心を映すかのように、何千人・何万人ものかけがえのない思い出をその碑の空白部分に刻んで、永く後世に伝える石碑(いしぶみ)としてお披露目されたことを報告して今回のお話としたいと思います。
東京でも銀座に次いで土地代の高い、高級エリアの真ん中に広大な面積の墓地があります。
いわずと知れた都立青山霊園です。
ここは明治7年に岐阜県美濃郡上藩の藩主の青山氏の下屋敷跡を寄付されて公共の霊園として開設されたものです。広さは26ヘクタールといいますから東京ドーム(4.7ヘクタールだそうです)5.5個分です。
(って、よく東京ドーム何個分という言い方がありますけど、東京ドームの体感の広さがわからないので、その何個分もよく理解できないのですが、何故それを一般的に基準にするのか不思議です。東京ドームは4.7ヘクタールだそうですが、例えばそこにサッカー場を入れるとやはり5.5個入るそうです。青山霊園の広さが東京ドーム5.5個分で、その東京ドームにサッカー場が5.5面入るとしたら、5.5×5.5=30.25 サッカー場が30面作れる広さってこと!!!、この方がわかりやすそう。)
まあいずれにしても、広大な面積の緑の安息地がそこに広がっています。
春には長い桜並木が一斉に花をつけて、よくニュースで流れるお花見スポットにもなっています。
都立の霊園には池袋にも雑司ヶ谷霊園、台東区には谷中霊園などもあり、それらには著名人や歴史上の人物のお墓もあり、趣味というほどのことではないのですが、歴史と石の好きな私にとっては、たまの散歩コースに霊園を歩くという事もあります。
特に近世、近代の歴史の本人が近くに眠っていることを考えると、何かワクワクするような気持で、霊園や墓石巡りをしたくなります。(決して変な人ではないので引かないでください。実際に生きた人の歴史を知っているだけに、自分のご先祖を思い、お墓参りするような気持ちです)
青山霊園の中でひときわ大きくて広い墓域と墓石は、大久保利通のお墓です。(写真②)
この人の事を意外と詳しく知らない(名前だけは知っている程度)方が多いと思いますが、日本の明治維新後のグランドデザインは全てこの大久保利通が作り、引っ張ってきました。
おそらく明治維新初期の中心が、この大久保以外であったら、かなり日本は立ち遅れて世界的に自立するのにさらに何十年も後になっていたことでしょう。
薩摩藩出身で初めは西郷隆盛や、長州の木戸孝允などと明治維新を主導しましたが、明治になって盟友の西郷隆盛が反政府側に立ち、大久保や木戸と対立しました。
それが明治10年の西南戦争です。
結果は大久保率いる政府側が勝利し西郷隆盛は自刃しますが、翌年明治11年その大久保も暴漢に襲われて亡くなってしまいます。
そのあたりの事は司馬遼太郎の長編『飛ぶが如く』に詳しく書かれていますが、その長い物語(文庫本で10巻)の最後の項は、その大久保利通が襲われて亡くなる経過を描いた「紀尾井坂」という章をもって終わっています。
現地青山霊園の大久保のお墓にもその最後の事や、一緒に居て難に合った馭者の中村太郎のお墓やその時に巻き添えで死んだ馬のお墓もあります。
まさに、『飛ぶが如く』の歴史小説そのままの情景が見られます。
また、少し離れたところでは御木本幸吉のお墓もありました。(写真③)
日本の銘品ミキモト真珠の創業者です。
この方には、名言・格言がたくさんあっていずれもとても有名です。
「誰もやったことがない仕事こそやり甲斐がある」
「人間には知恵が大切だが、物事の成功にはどうしても運が必要だ」
などは私も大いに共感しています。
少し風変わりなところでは
「世界中の女性の首を真珠で絞めて御覧に入れます」
というユーモラス?自信過剰?な名言もあります。
御木本家の墓域は、奥がシンプルにご先祖供養の五輪塔、隣に和形墓石、そして手前が何ともシンプルな洋型墓石という、石屋にはとても参考になるお墓です。
こうやって時々、霊園巡りも楽しくなってくるのですが、自分でこの青山霊園を求めようとするならば(もちろん、仮のお話ですよ)もともと予備の墓域がないので、返還された墓地の再募集がある場合ですが、、、何と一番小さな1区画(1.6平方メートル)で約500万円、少し広い区画(3.1平方メートル)だと1,000万円の墓地代です。もちろん墓石代は含まないのでこれに加算されます。
そして、その応募倍率ですが、最も低い倍率でも10倍から20倍の何とも狭き門(狭き確率)です。
やはり高額でも、高倍率でも、都心の一等地で歴史上の人物と一緒に死後を過ごせる青山霊園の人気は決して衰えないのでしょうね。
杜の都と称される仙台市内から西側に5km程行くと歌に唄われた広瀬川があり、そこに掛かる大橋を渡ると小高く聳える青葉山の下に至ります。
健康維持を図ってよくそこまでウオーキングし、そしてその先の標高150mほどの、有名な伊達政宗の居城仙台城(青葉城)跡までの心臓破りの坂を上って往復するのが、私の好きな散歩のコースとなっています。
普通は自動車も通るし、バス便もあり、歩道があるとはいえ車の排気ガス(今は電気自動車もあるので死語になりつつありますが)と騒音と一緒に汗をかいて登っています。
ところが今年の2月の地震でまたしても(2011年の震災の時以来)青葉城の石垣が崩れて車類は完全に通行止め、歩行者は別なルートを併用して城跡まで行けますし、もちろん車も八木山経由の別コース経由で入れるので、頂上(?)の城跡にはたくさんの観光客も来ていますが、基本的には通行止めの場所があちこちにできました。
2月の地震からもう10か月経っているのですが、通行止めしているだけで外から見ると何も進んでいない、やっぱり役所仕事は民間と比べると何事も遅いんだなあ、と普通に仕事の遅さを心で非難していました。
青葉城下の博物館の改修などは3年工期で閉館しており、なんとも気の長い工程で老い先短い高齢者(自分の事です)は早く改修を終わらせて、博物館のいろいろな企画展示を見たいという焦りのみ先行してしまいます。
カラーコーンと通行止めのスタンドで崩れた石垣に近付かないようにしていますが、少しは片づけたり車が通れるように出来ないのだろうか、10か月もかかっているのに、と勝手に憤慨して近くに行ってみると、実は何とちゃんとやっているではありませんか。
全ての崩れ落ちた外壁の石1個1個に番号が付けてあって、ちゃんと調査し対策していることがわかりました。
なんだ、お役所仕事だなって言ってそれは失言だったようですね。
ここからは、想像ですがおそらくその作業中なのだと思います。
その作業とは、1個1個に番号を付けて、その石の形状を電子データでスキャンして、全てのピースをデータに落としてから、旧石垣のどこに何番のピースを入れれば元の様に復元できるかというデスクワーク中と推察されます。
なるほど、この作業をしてから、現場の崩れた石を一旦別なところに運んで、そしてそのデータに基づいて番号付けしたピース1個1個をそのデジタル設計図に合わせて再組立てするという流れなのでしょう。
それなら3年、4年かかってしまうのも肯けるように思いました。
昔の石組みは職人の腕に頼るものでしたが、今の復元はデジタルに頼るのですねー。
時代の流れの変遷って考えると面白いですね。
そうやって登った先には、城跡のシンボルの伊達政宗騎馬像が、、、、
あれ、石の台の上でなく地面に降り立って鉄枠の中に、、、、
実はこれ、たった一瞬のチャンスでした。
その時の地震で石の台につながる馬の2本の脚(4脚のうち2脚だけで立っていました)が曲がってしまい、騎馬像自体が斜めに倒れたことにより、地震後1週間くらいで応急処理、そして引き下ろして修理に運ぶ前の一瞬のタイミングでした。
こちらは石垣のようなデジタルデータの複雑な作業は無いと思いますので、一日も早く馬の病院から退院して台座の上にその雄姿が戻ってくることを心待ちにしています。
(12月時点で未だカムバックしていません。おそらく戻ってくる時にはテレビ番組のニュースになるのでしょうね。)
『2011.3.11
津波は川から陸へと襲ってきました。
高さ8.6mもの津波が学校をのみこんだのです。
児童74名、教職員10名が犠牲となりました。
大川地区全体では418名が津波の犠牲となりました。
石巻市は、この事象と教訓を伝え続けるために
学校を震災遺構として残しました。
いのちについて考える場所となったのです。』
これは、旧石巻市立大川小学校の跡に新たに作られた大川震災伝承館で頂いてきたパンフレットの書き出しです。
気にはなっていた場所ではありましたが、なかなか足を向ける気分になれず実際に見に行くことは今までありませんでした。
今回、近くを通ったので、思い切って見に行くことにしました。
この学校で起きたとても悲しくて心が悼む出来事は、いろんなニュースやテレビ報道でも何度も何度も流れていたので、そのことに関しては触れません。
かけがえのない児童たちの想い出は保護者の皆さんにとって何にもぶつけられない辛い思いでしょうし、引率の教職員にとっても(まさかあの場所まで津波が来る…)なんて考えもしなかったでしょう。
長く司法などで争った経緯についてもこの伝承館では残されています。
そして、実際に現地に立つと川も見えなければ、海側の小さな小山に遮れられて全く海がそこにあるなんてわかりません。
ただ秋にしては強い日差しと微かな枯葉の匂いがそこに漂っているだけでした。
航空写真を見て初めて、この学校と海や川との位置関係がわかった次第です。
(写真②の上が震災前、下が震災後1か月ほどしてからの航空写真です。
大川小学校の位置は写真下部の大きな橋の右側斜め右上、山の麓の円形の建物です。)
ちなみに写真①は校庭内の野外ステージ壁に残された、当時の卒業児童の卒業制作の絵です。
はじめに、旧校舎、体育館、プール、野外ステージなどを無言のままに回り、その後震災後に建てられた震災伝承館でその資料を見、見つかったランドセルや教科書を見ていくうちに益々心に重圧を感じて先に進むことが出来ないくらいでした。
何とか心を持ち直して最後に供養碑や慈母観音像、鎮魂碑、希望のエンジェル像などが建ち並ぶエリアで少し落ち付かせてから戻ってきました。
私たちの仕事である石碑の役割は、後世に残す為であると自負していますが、このような生の震災遺構には及ぶべきもないものであり、実際の事象やその想いをもっと深く石に刻んでいかないとならないと改めて思った瞬間でした。
立ち去る時に見た供養碑のエンジェルの影が、天に向かって羽ばたいていく天使の姿を表していました。
前回に続き、大谷石の地下採掘場跡の訪問の話です。
この公開されている採掘場跡は140メートル×150メートルで約2万平方メートルあり、具体的な大きさで言うと野球場が一つ入ってしまう大きさです。
深さは地表から平均で30メートル、最も深い場所は地下60メートルもあります。
ここでは手掘りで採掘していた時代の跡、そして途中からは機械で採掘した時代の石の層が見られます。
手掘り時代はつるはしで掘っていたために石を採った後の壁面に鑿の後のような模様が残りますし、機械掘り時代はチェーンソー(写真②)で切り出すので、均一な波のような模様が残ります。
坑内を壁面に沿って歩いていくと、ここは古い時代だなとかこちらは比較的新しい機械式の採掘方法かとか、見れる人にしか見れないけどそこにはっきりと残っている事実を感じながら見学できます。
その中で、思わず足を止めて興味を持って写真を撮ったのは①の当時の採掘された石の大きさサンプルです。
私もこの業界に入社したての時に、この大きさのものを実際に扱っていたので、本当に懐かしい遠い青春の日を思い浮かべる媒体となりました。
いちばん一般的なのは「五十」というサイズです。
(ごとう)と呼びます。
「六十」は(ろくとう)、「五八」は(ごはち)と呼びます。
はじめ、「(ごとう)運んできて!」って言われて「後藤さんを呼んでくるのですか?」と質問を返したほどに、業界用語を知らなかった自分でした。
これは「寸尺表記」での基本サイズです。
「五十」は縦5寸(約15センチメートル)横10寸=1尺(約30センチメートル)長さは基本的には全て3尺(約90センチメートル)で統一されています。
つまり「五十」の石は15×30×90センチの1本の石で、これを基に塀や蔵や石製品を作っていきます。
もちろん「五八」は15×24×90センチですし、「六十」は18×30×90センチで、大きさによりその重さが変わってきます。
若かりし頃のひ弱な新入社員は、ベテラン社員が「五十」の石(約75キログラムあります)を両手でコロコロ回して運ぶ姿に、へっぴり腰で遅れながら回して運んだものでした。
ただ、次は「六十」だとか「七十」だとか言われると、なかなか動かせなくてビクともしない石を汗まみれで格闘していた遠い記憶を瞬間で思い出してしまいました。
③の写真は、その遠い記憶が宿ったような、幻想的なショットです。
個人的にはこの写真が最高の出来栄えと思っており、写真展にでも出しても賞が取れるかもしれないと自負している1枚です。
お題はそうですね【幽玄のタイムトンネル】でしょうか。
東北自動車道のパーキングに大谷P.Aという所があります。
そこには最近多くなってきたスマートインターチェンジが無いため、本当はそこのすぐ近くなのですが、その前後のI.C(インターチェンジ)で降りてまたこの大谷P.Aの辺りまで一般道を戻る必要がある場所なので、なかなか訪問する機会がなかったのですが、是非一度訪れたかった場所であり、漸くにして今回訪問してきました。
石の業界人なら大谷と言えば大谷石、過去の石で無く今でも現役の石材です。
過去の話をすれば、旧帝国ホテルで設計者フランク・ロイド・ライトがそれまで外装材、構造材として使用してきた大谷石を内装材としてふんだんに使った例が最大の例ですが、門塀や石蔵、柵や階段など生活の中の必要素材として数百年前から使われてきた一般の人々の生活に寄り添ってきた石材であり、その一大産地です。
専門用語になりますが、こちらの大谷石は火山灰由来の堆積岩に分類される凝灰岩となります。
実は当社ランドワーク株式会社・まつしまメモリーランドの基となった松島産業株式会社創業は、それと同じ凝灰岩である「松島石」「野蒜石」に由来しています。
今でも、その産地であった東松島市野蒜地区、宮戸地区には露天採掘の跡や、地下洞窟の跡が見られます。
ただ、この大谷地区の採掘規模は松島・野蒜の採掘場の数十倍~数百倍の大きさです。
そして今は大谷資料館という観光施設もあり、その中の地下採掘場は映画やテレビドラマの撮影場所しても活用されるほどの巨大さそして見ごたえの立派さです。
古くは薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」「ウルトラマン」シリーズや「仮面ライダー」シリーズの撮影、最近では「るろうに剣心」「翔んで埼玉」などの撮影でも使われているようです。
イタリアのトスカーナ州ピサの近くのカッラーラ地区に白大理石の巨大な超ド級の白大理石採掘地下広場は、その大谷採掘場を超える広さであり、この大谷採掘跡はそれには及ばないものの、ここは世界的にも珍しく日本では他を圧倒する有数の規模、広さ、美しさと思います。
中に入ると冷やりとした空気と共に厳粛な気分に覆われて、外界の暑さ猥雑さをすっかり忘れることが出来る空間だったと思います。
私が40年ほど前、初めて勤務した小学校のある半島を、そのままもう少し半島の突端に足を延ばすと牡鹿半島の鮎川という港町に着きます。
ここは商業捕鯨が有名でかつては人口も多く、金銭的にも裕福な賑わいのある田舎町でした。
今回はここが目当てではありません。
この鮎川であれば、多少遠くても車で来れるのでここ数十年の間でも何回か来ていると思います。
今回の目的地はその沖合に浮かぶ金華山という島です。
よく、気象番組では金華山沖〇〇キロメートルという表現で紹介されます。
もちろん船でしか行けません。
また、それも定期便と言われるのは、なんと日曜日しか運航しておらず、しかも予約制なので前日までに予約の連絡をして、週に1本きりの船で行くようになっています。
もちろん船をチャーターするケースもあるようですが、基本は皆さんこの日曜日の1本に乗られるようです。
鮎川から金華山までは乗ってしまえば20分もかかりません。
ただし帰りの船も1本しかないので、金華山滞在は約1時間30分となります。
思い起こすとここには何と中学3年生の時に友人2人とサイクリングで鮎川まで来て、それから自転車を置いて金華山に渡ったので、ちょうど半世紀前以来の金華山訪問となりました。
定期船が着いた港は桟橋のみが平らな場所で、船を降りたらすぐに急勾配の坂道と金華山黄金山神社の石碑がお出迎え。その後延々と上り坂が続きます。
歩いて20分ほどで神社の鳥居が見えてきます。
年をとったらなかなか参拝も大変だろうなあと心配していると、参拝者の利便を考えてか神社職員らしき人が運転するマイクロバスが送迎していて、参詣者を優先的に乗せているとの事でした。
この島の歴史を少し解説しますと、今から1270年前の聖武天皇時代、奈良の大仏を金のメッキで仕上げる為、輸入の金では不足していたところに日本で初めて金が見つかり、当時の陸奥の国主が金華山の黄金を献上したという由来があります。
そして祀られたのが黄金山神社です。金華山黄金山神社、なんと金尽しなのか。
もちろん今は堀り尽したのか、或いはその採掘地は金鉱や金脈でなく、いわゆる砂金だったのか、今ではどこが金採掘場所なのか比定されていません。
そして同じ陸奥の国(宮城県)内の涌谷という地にも黄金山神社というのがあり、そちらも国内初の産金地という触れ込みなので、この陸奥地方は間違いなく金が採れた地域だったのでしょう。
その金尽しの金華山黄金山神社には「三年続けてお詣りすれば、金(かね)に不自由はさせますまい」という御神徳が授かると言われています。
また、その派生なのでしょうが、「三年続けてお詣りしたら、悪い病気の再発を防ぐ」との信心もあるようで、現に私の友人も大腸がん治療後に3年続けてお詣りし、その後十数年経っていますが、元気に焼酎のボトルを空にしています。
当神社内には多数の石碑や石像、石の階段や欄間、そして結界となる石の欄干も各地の寄進者の名前を彫って納められています。
何より巨大なのは拝殿に向かう階段の前の花崗岩造りの大鳥居です。
途中で継ぎ合わせることなく縦方向1本ずつ2本、横方向1本ずつ2本、つまり开の字のとおり4本の長大な石の棒で作らています。
鳥居は基本的にはその通り4本で作るのが普通で、且つ安全面でも考えられているのですが、最近はその大きさが珍しく、場合によっては継ぎ合わせたり、重ねたりする場合もあるので、その作り方に注意して観察しましたが、やはり1本物でした。
なかなかの出来栄えと感心しました。
帰りの船の時間もあるので急いで今度は反対側を通って下り始めましたが、そちらは風光明媚な景色をバックに草を啄ばむ鹿の群れがいて、なんとも長閑な風景と陸から絶縁された孤島と金産出の黄金山神社の取り合わせの面白さに、思わず感心した小トリップとなりました。
久しぶりに遠出をしてきました。
その辺りは昔よく行っていたり、知っていたりした場所ですが、11年前の東日本大震災で大きな被害を受け、街並みがすっかり変わってしまっており、復興まで10年の時を要しました。
新しい観光名所や、賑わいのある街並みも整備され、家族連れで行き来する人々の顔は、間違いなくあの時の苦悩から立ち直りつつあると確信しました。
ふと、その中に真新しい施設(建物)が目に入り、その裏手の駐車場に車を停めました。
建物付属設備を囲った場所の隣に、こちらは垣根を回した空間がひっそりと人目を忍ぶように存在していました。
その垣根の一か所だけわずかに開いていてそこから遠慮がちに出入りできるようになっています。
その中にモニュメントと碑が建っていました。
実は私はこれがここに在ることも知っていたし、このモニュメント制作に当社でも協力させていただきましたし、この会社のトップの方の工場立ち合いにもご一緒させていただきました。
ただ設置されて、現地での状況は初めて見せて貰いました。
モニュメントのお披露目というのは普通は目立つように派手に行うことが多いのですが、こちらはその意図から静かに目立たず被災者への哀悼や、生き残った仲間の誓いの気持ちを込めた、厳かで深い心映えのモニュメント制作と設置発表でした。
具体的な場所や事業所名は入れるわけにはいきませんが、仲間を失う哀しさとその遺族を思う心やりと、生き残った仲間の誓いの想いがこの碑に刻まれています。
モニュメントは碑とも言います。
碑は「いしぶみ=石の文」とも読みます。
別離した仲間にも後世にも、そして子孫や歴史に伝える石の文、想いを伝えるタイムカプセルが石碑なのでしょう。
この石碑を発注された、こちらの会社のトップの方の深くて思いやるのある眼差しの中、工場検査、製品検査をされた瞬間のお気持ちを考えると、今もズシリと心が悲鳴を上げそうになります。
この石碑は未来への手紙であるとともに、亡くなった仲間への慈しみ深い文であることを強く感じて帰途につきました。
ついにまつしまメモリーランドの社長コラム第200回目を載せる日が来ました。
2005年12月に当時のホームページ改修に合わせて企画された石のコラムを、ほんの軽い気持ちで担当しましたが、それから足掛け17年、月に1回位のペースでの投稿でしたので、その意味では漸く200回目に到達しました。
その間、途切れそうになったこともありましたが、拙い文章でも継続することが自分の使命であると思い、何とかここまで続けてこれました。
その原動力となったのは、その時々の読者の皆様からの励ましや応援もあったことで、正に感謝のしようもありません。
継続できたのは、読者の皆様のお陰であると改めて気づかされました。
どこかでどなたかが読んでくれている、何かの感想を抱いていてくれている、と思うとやはり大きなモチベーションになっています。
今回200回目に何を書いたらいいか迷っている時も、熱烈なある読者の方から第199回のコラムを読まれて、「そう言えば何でまつしまメモリーランドっていう店名(社名)なのか?」「初めて聞いた時に遊園地かと思った」「仙台には3つの遊園地があると勘違いしていた。(注:八木山ベニーランド、西仙台ハイランド(2006年完全閉園)、まつしまメモリーランド??)」「一つの社名に、まつしま(平仮名)メモリーランド(片仮名)中山店(漢字)の3種類の文字様式を使っているのは珍しいのでは」など疑問を解決する記事を書いたらどうか、という有難いアドバイスが寄せられました。
本当にそれでいいのでしょうか?
前回が「Landwork」の由来、今回は「まつしまメモリーランド」の由来???
もう、ではそのリクエスト(アンコール)にこたえる形にいたしましょう。
これで記念の200回のお話にさせていただきましょう。
時は遡って1998年頃、私が社長になって1~2年後の事です。
当時当社は建築バブルの絶頂期を過ぎて大理石等建築石材の頭打ち、売上減少の波がやってきており新規事業の必要性を感じつつ難しい舵取りを任せられた新米社長の混迷が続いていました。
そこへ山陽地区のある墓石卸会社の社長が、面識無いなか当社を訪問してくれました。
先方は墓石の卸先を増やしたい、新規の墓石卸の売上を増やしたいという事での営業訪問でした。その社長は同業の建築石材会社でも、なぜ当社の財務内容が良いのか、その内容なら新規投資力も十分あるだろうという下調べをしての訪問のようでした。
しかし以前もどこかで書きましたが、建築石材事業と墓石事業は全くの異業種で、扱う単位(cmと尺寸、平米と立米)も、お客様も、流通も、所属する業界団体すら全く違い一緒にやるなどとは考えたこともありませんでした。
一般の方から見れば、同じ「石屋」だろうと不思議がられますが、同業者で当社のように「建築石材」と「墓石」を同じように事業化しているところはほとんどありません。
今の話題の真っただ中に例えれば野球の大谷選手のピッチャーとバッターの二刀流と同じようなものです。
大谷選手と違うのは、最初から二刀流を自分の意思で進めたのではなく、始めは私も断ったくらいで、どちらか一つしか出来ない、メジャーの中ならその一つだって生き残るのが大変だ、くらいに思っていた平凡意識の新米経営者でした。
ところが、その社長は翌年再度当社に来社し、墓石の小売り立上げを手伝うから墓石小売り事業をやらないかと、強力に提案してきました。
その頃、新規事業として幅を拡げる方策が弱く、中国に事務所を作ったりはしたものの、大きく業績を改善できない状況だったこともあり、何度かの打ち合わせを経て当時の「松島産業の墓石小売り事業」を開始することにしました。
それから店舗土地の物色、建物の設計、小売りシステムの構築、担当人材の新規採用などなどいくつも山を越しましたが、最後に店名を決めるに当たって今回の謎説明となります。
松島産業墓石部?松島石材?まつしま墓石店?仙台石材?墓石のまつしま?・・・・
全てピンときません。(今でもそれらの名称にしなくて良かったと思います)
その時にその山陽の墓石卸会社では一部山陰地区等に墓石小売りのパイロット店として、あくまでも卸がメインの中、小売り事業として店舗名だけを「メモリーランド」という名前で展開していました。
「その名称良いなあ、それを使わせて。」
「特に問題無いです、どうぞ。」
と、大変簡単な話ですがそんな調子で「メモリーランド」は決まりました。
でも、突然仙台の泉区、4号線バイパス沿いに「メモリーランド」は何屋でどこの者?
やはり、当時の本体の松島産業という会社名からも取るべきとの考えもあり、小売りのお客様相手で軟らかさを求めて漢字の「松島」でなく「まつしま」を頭に持ってきました。
「泉店」は本当に希望だけでいつか2店舗3店舗と増えたら「まつしまメモリーランド」だけでは混乱すると思って泉店と入れたのですが、2年後に「長町南店」3年後に「北松島店」4年後に「中山店」となったのは自分でも信じられない幸運の集合でした。
そんな理由で「まつしま」「メモリーランド」「〇〇店」の合作となったのです。
最後に、その数年後、その時の山陽地区の卸会社の社長と再びお会いし、その社長方針で卸会社と小売り会社の会社分割を考えており、その小売部門の6店舗を譲り受けて「メモリーランド西日本」として当社のグループに迎えることになったのは、それからずっと後の事で2019年のお話でした。
まつしまメモリーランドの社長コラム「石のことば」も次回が記念の200回目となり、そこに載せる話題を何にすべきか今から悩んでいてなかなか構想が進みません。
また、そのプレ200回となるこの第199回も本当は何を書いていいのやら迷いに迷っていました。
いつもはこのコーナーに関してはその題名が示す通り、何らか「石」との関わりを中心に記載してきたつもりですが、今回は多少つまらないかもしれませんが、ランドワークという社名になった裏話をしていきたいと思います。
もともと当社の社名は松島産業株式会社(1965年7月1日設立)、私が入社したのは1984年ですから20年目に掛かる頃の事です。
その名称の由来は東北本線の松島駅前に在って、主力商材が松島石(野蒜石とも言われる凝灰岩)で、関連会社(先代代表の仲間と作った採掘加工の会社名は松島石材)の販売を一手に引き受けた形で、日本全国に販路を拡げたいという願いで産業株式会社と付けたらしいです。)
それから、当社は国産大理石、花崗岩へと扱いが拡がり、そして工場設備を有して外国産の大理石や建築石材など主力商品を拡げていきました。
2000年になって、墓石小売り事業を開始し(墓石卸売り事業はその前もやってはいました)その時の商標が「まつしまメモリーランド」です。
つまりちょっと大きな例えですが、あのユニクロが社名ではなくて商標であり、会社名としてはファーストリテイリングであるのと同様、知名度的にはまつしまメモリーランドの方が皆さんによく知られるようになりました。
その後、グループ多角化によって、不動産事業の品川倉庫建物、測量設計事業の一測設計、アイエスプランニング、オリエント測量設計、中国貿易輸出事業の大志貿易有限公司、事業組合の仙臺納骨堂と本体の松島産業を含めて7社になった2015年、ちょうど松島産業が設立50周年、品川倉庫建物が80周年、一測設計が40周年に当たる節目の時期が来ていました。
(今では、その後に墓石関連で秋田石材、やまと石材、まごころ価格ドットコム、山口石彫、メモリーランド西日本、石のヒラガと6社が増え、測量設計関連で佐藤測量設計が入り、そして本体からまつしまメモリーランドを独立させて、現状は15社の事業グループになっています。)
その2015年の50周年、80周年、40周年の合同周年イベントで、「松島産業グループ」というのは何か固い、古臭い感じがして、グループ名称だけでも作ろうかという流れになりました。
その当時は社名を変えるだけでも専門のコンサル会社があって、社名(この時はグループ名称)を考える専門家みたいな人たちがよく出入りしていました。
その専門家からいくつか提案をもらったのですが、今までにない言葉(造語)だったり、単にイニシャルを2つか3つ並べた社名だったり、ギリシャ語とかラテン語とか意味の分からない社名提案などで、これといったものが無く提案は全て却下でした。
でも、自分の奥深いところには、何か(当時は全7社)共通のシンボル的なものがあるはずだと、そんな漠然とした思いはありました。
「石材」(大理石・花崗岩)、「墓石」(墓地・納骨堂)、「不動産」(土地・建物)、「測量設計」(土地測量・道路設計)当社グループの事業領域を並べていくと、そこに共通するのは「土地・大地」であることが明確になり、そしてその「仕事」をして社会に貢献していく。
つまり「LAND」の「WORK」が当社グループのおおもとだと閃いて、この自分で出した案をほぼ強引にグループ名として採用しました。
ロゴやその空と水平線(地平線でもある)のイメージは流石に専門家の意見も加えましたが、その映像イメージの原風景も実はギリシャのサントリーニ島の水平線のイメージがありました。(写真②はそのイメージです。写真③は世界一奇麗と言われる同じくサントリーニ島イオの夕日の風景です。)
また、話を少し脱線させていつもの「石とワイン」の流れで話すと、ワインの違いを最も顕著に現すのはテロワール(土壌)と言われます。
ワインの良し悪しは、実はブドウや気候や醸造法も大きく影響しますが、絶対に真似が出来ないのはテロワールの違い、大地の違いがあのロマネコンティやシャトーマルゴーを産んでいることも実に興味深い「Landwork」なのですね。
さて話は戻って、2015年にグループ名称としたランドワークですが、2018年の12社に増えた時の経営体制発表会を機に、本体の「松島産業株式会社」を「ランドワーク株式会社」に、そして東京の「品川倉庫建物株式会社」を「株式会社ランドワーク不動産」に社名変更して、現在は名実ともに「Landwork」グループとして今に至っています。
これからもグループの変容はあるかもしれませんが、われわれは「Land」を「work」する基本を忘れないようにしていきたいと思います。
第200回目を前に多少堅苦しいお話にお付き合いいただきありがとうございました。
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