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歴史上の人物のお墓ってその由来や縁起もさることながら、本物かどうか、そこに本当に遺体、遺骨を納めているのかなど真偽のほどが良くわからないものもあります。
戦国時代の三武将、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のお墓もはっきりしないところがあります。
織田信長は本能寺の変で明智光秀の謀反により自害しその遺体を探し回ったが見つからなかったと言われているだけに、本当に遺骨を埋めたお墓は無いと思われるのですが、近侍していた僧がその首級を持ち帰って納めた信長の墓がこちらにあるとか、実は生き延びて別なところに墓を作ったとか有名なだけにいろんな偽説?もまかり通ります。
徳川家康は最期は隠居城だった駿府城で亡くなった後、本人の遺命で静岡の久能山に葬られました。
2代将軍秀忠が久能山に東照宮を建てていますので、ここに遺骨があったのは間違いありません。
ただし、3代将軍の家光が有名な日光東照宮を建てて、奥宮には巨大な家康の墓があることから、久能山から移設(今でいうお墓の移転)したのか、分骨(久能山から一部移動)したのか、今となっては掘り返さないとわからないそうです。
さて、豊臣秀吉の場合はどうか。
秀吉は権勢絶頂の時、伏見城で亡くなります。
ただし、後継ぎ(豊臣秀頼)も幼く、側近(石田三成など五奉行衆)の力が弱く、その死を半ば隠すように京都阿弥陀ケ峯に埋葬されました。
当初その山麓には豊国社という神社が創建され、正一位豊国大明神という称号で神として祀らわれました。
しかしながらその後関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣を経て豊臣家が滅亡すると、徳川幕府の命令で豊国社は廃祀され、山頂の阿弥陀ケ峯のお墓も壊されてお参りする人も途絶えました。
幕末に徳川幕府が倒れ、明治の代になってその豊国社が再建されて再び脚光を浴びることになりました。
そして山頂のお墓の有った場所を掘り返したところ甕棺に入った秀吉の遺骨が見つかり、その遺体の向いていた方向まで特定できたとのこと。
その骨はすぐに埋め戻されて今はその真偽を知る術もないですが、上記の再建された豊国社が中心となって明治31年に遺骨の埋まっていたところに五輪塔を建てたものだそうです。
しかし、最近の私のコラムは階段関係が多いと感じますが、ここも下から一直線で489段の急な階段を上り、その先には想像を絶する大きな御影石の五輪塔。
下台からの高さが3丈1尺(10メートル)に及び、ざっと目算でも本体の重量は20トン以上、外柵や灯篭などの付属品も入れると50トン以上の石をどうやってこの山頂に運んだのだろうかと不思議感が一般です。
間近で見る秀吉の墓(明治の再建だが)は形こそ大きいものの、文字はほとんど彫っておらず、お墓も墓前灯篭も豊臣家の家紋の五七の桐だけが訪れる人を待っているだけでした。
今回は、前回の山寺の巌壁(いわかべ)の件でも出てきて、今まで何回も話題に上った凝灰岩についての話をしたいと思います。
先ずは、我われ専門家?も一目置く小学館図鑑NEO「岩石・鉱物・化石」の図鑑を開いてみると、凝灰岩については以下のような説明があります。
「堆積岩の分類に入り、火山の噴出物が地層の様に積み重なったもので、火山灰が固まって出来た岩石である。
マグマが急に冷えて出来た為に隙間が多く、軽くて加工しやすい岩石である。
有名なものに大谷石があり、今から1,300万年ぐらい前の日本海が出来た時期、海底火山が噴出した時の大きな火砕流が海底で堆積したものである。」
とありまして、小学生でもよくわかる説明となっています。
とにかくこの図鑑、豊富な写真とイラスト、そして世界中のサンプリングから集めた実例をもとに、石材、岩石の事についての知識として集大成の本だと思っています。
こんな図鑑を若い頃から見て学んでいたら、脳みその空きの限界が来ている大人と比べ、まだまだいくらでも入っていくスペースを持った小中学生が知識を吸収し、石材専門家?も負けてしまうのではと心配するほどの完璧な図鑑です。
何度かこのコラムでも述べてきた通り、当社の創業はこの凝灰岩を主たる素材として始められました。
理由は単純、創業地を含め松島湾内の島々や沿岸地域は凝灰岩層の地層の上に少しばかりの土が堆積し、その上に草が生じそして松が林立して、そして出来上がった景観が日本三景の松島となったものであり、そこに住む人々は自然が与えた素材(松島石=凝灰岩)を活用して家屋の土台となしたり、米を保管する石蔵の材料としたり、自分の敷地と豊かさを表わすための石塀や門柱にしたりと活用してきた地域限定素材を、昭和になって全国流通の機運と共に内外装材活用などのアイデアを加えて、時代の波に乗った創業期の戦略素材でした。
ただ、凝灰岩の性質上、メリットは加工のし易さの他、火には強く湿気にも強いのですが、風化や浸食に弱く耐久年数が短いという欠点から、今の主流ではなくなってきてしまいました。
当社の石材扱いのうち、凝灰岩は1%にも満たない、本当に稀な商材となってしまっています。
石材に善悪はありませんが、凝灰岩はどこの産地の物でも今やほとんど忘れ去られた存在となっています。
しかし、凝灰岩で作った石造物は今でもあらゆる所に存在し、そして今までのコラムに取り上げた様に、我われも常にその実物を目にしています。
更には松島湾の景観そのものが凝灰岩と松で織りなした地球の歴史の産物で、そこには流行も石の強弱も無く、ただそこに存在してくれている姿があります。
湾内には風化と浸食が進んで、その上の植物や松が無くなっても、海を渡る鳥たちには羽を休める場所として、そして外敵から逃れる拠り所としての存在意義が残る、岩だけの小島もあり、心温まる景色を見せてくれています。
時代が求める存在感と、悠久の時間を超えた存在意義は、或いは相容れないものなのかもしれないですが、そこに一千万年前の火山が堆積して岩石となった凝灰岩の役割と限界を考えずにはいられない思いです。
山寺の階段上りの話の続きです。
山寺の主役は何といっても芭蕉です。
参道のいたる所で芭蕉の句碑や像が出迎えてくれます。
山寺の下の集落の中には芭蕉堂や山寺芭蕉記念館などもあり地域全体で主役は江戸時代の松尾芭蕉です。
ところがこの案内看板、芭蕉句碑の案内の後半にまるで借り物の様に追加で清和天皇宝塔の事も書かれています。
今までは見過ごしてしまっていましたが、何か気になってほんの少し脇道に逸れるとそこには立派な宝塔(古いお墓の形式です)があります。
石もこの巌壁の材質と同じ凝灰岩とみられます。
かなり大型で加工も上手です。
確かに凝灰岩は軟石で昔の工具でも加工は容易だったと思いますが、大きさもそうですし風化の度合いもそんなに昔の物か?という疑問があります。
宝塔の下台の下の基壇部分は同じ石でも風雨の影響で穴が開いたり形が崩れたりしていますが、下台から相輪までの本体部分があまりにきれいに残っているので或いは建て直したのかもしれません。
更には何で清和天皇の供養塔がここに?という疑問も浮かんできます。
立石寺の起源を見ると貞観2年(西暦860年)に清和天皇の勅願によって慈覚大使がここに開いたとあります。
清和天皇本人はここに来ることは無かったかと思いますが、地元ではその清和天皇の遺徳を偲んでのちに供養塔を建てたものでしょう。
そこまでは理解できますが、この案内看板にある当山で最も古いという時期はいつ頃だったのでしょうか?
亡くなって直ぐなら1,200年近くなります。
でも先の疑問から途中で建替えしていないのか、そのままの形だったのか、多少疑問が残ります。
モノの新旧はどうあれ由緒で言ったら確かにこの石塔が一番古いという事になるのでしょう。
残念ながら石製品には石材自体の編成年代が数千万年前、数億年前の為、木材の様に科学的な年代確定法が無く、造った時の加工工具や彫刻文字、そして刻んだ年代によってしか判別できません。
それからすると我われが遺す石の記念塔(墓石も含んで)には年代を彫るのは必須ですね。
そうしないと、先の案内看板の様に、時系列で先に芭蕉の句碑(芭蕉の門人たちが嘉永6年西暦1853年に建てたもの)が先に来て、それから1,000年近く前の清和天皇宝塔が後になる順番に違和感を覚えてしまうことにもなります。
ここから少し階段を上った先には変わった形のお墓が年代順に並んでいます。
こちらは無縫塔と言って僧侶の方のお墓の形です。
この山寺立石寺で勤行されてこの地で亡くなった歴代の僧籍の方々のお墓でしょう。
消えかかってはいますが微かに年代のようなものが彫られています。
軟らかい石の場合は早めに保存や拓本を採って保存しておく必要があるかもしれないですね。
そう言えば最後に思い出しましたことで締めます。
清和天皇と言えば武士のルーツ、特にこの天皇の子孫からの源氏は源頼朝や足利尊氏の先祖となり征夷大将軍にはこの子孫からでないと駄目とされました。
(源氏の元祖は他に嵯峨源氏や村上源氏など21流派があったそうです。)
同じく平氏は桓武天皇の子孫という事になっています。
(こちらの平氏も仁明平氏など4流派があるみたいです。)
他には藤原氏や橘氏に辿り着くお公家さんルートもあるようですが、江戸時代の家系図創りの専門家はその4姓のどれかに先祖を持ってきて創作していたと聞いたことがあります。
自分のルーツがどこに繋がっているのか、ひょっとしたら清和源氏の末裔だと想像してみるのも面白いかもしれません。
前回は千葉県の通称鋸山の石についてでしたが、今回は山形県の山寺の話をしようと思います。
私たちは通称で山寺と言っていますが、正式には立石寺(りっしゃくじ と読みます)という比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院です。
場所は山形市内ではありますが、中心部からは車で30分程も山の中に入ったほぼ行き止まりの奥にあります。
創建が860年と言われていますので、奈良や京都の寺院を除けばかなりの歴史を有するお寺になります。
(ちなみに比叡山延暦寺の創建が788年で有名な宗祖最澄によって建立されたとなっていますので、それからそう遠くない時期に、こんなに遠い場所に作ったことにも驚きです)
そんな由緒ある立石寺ですが、私たちがここを訪れるのは一つは松尾芭蕉の発句の場所であったことが奥の細道に書かれているからです。
「閑かさや 巌にしみいる 蝉の声」
学校の教科書にも載る定番中の俳句ですので知らない人はいないでしょうが、本当に蝉の声も周りの岩の様子もそして体感の温度さえも想像できる17文字です。
地元や近隣の者にとっては、その芭蕉の句以上にここに来る理由があって、それは参詣というより、観光というより、ミニ登山、或いはトレッキングの要素がふんだんにあるからなのです。
実はこの登り口から頂上?奥の院までは階段数で1,015段あり、ちょっとした運動のつもりでここを訪れる人が多いです。
標高差で言ったら159メートルあり、低山登山ならそのくらいの山もたくさんあります。
途中には休み処もあれば茶屋もあります。
まさに最高の鍛錬コースで通常片道30分~40分、ただひたすら上り続ける苦行?です。
今回10年ぶりくらいに登って驚いたのですが、以前はその1,000段以上の階段をほとんど休むことなく登れたのですが、今回は途中で3回大きめの休憩を入れないと体がついていけなかったことに驚愕と共に苦悩を感じえませんでした。
こうして徐々に基礎体力がなくなるものかと改めて健康維持の運動の重要さを実感しています。
そうして何とか登った先にあるのは、満足感と共に絶好の景色です。
いくつかある絶景ポイントの一つ五大堂からの眺めはまさしくそこまでの苦労が一瞬で飛んでしまう景観です。
この風景を見るために登ってきたのだと思わせるほどの絶景です。
さて今回の「石」の話は?
芭蕉の句の「巌にしみいる」ですが、通常の「岩」でなく「巌」という意味が現地に行くとよく分かります。
山寺の山自体が凝灰岩の「巌」なのです。
ですから、1,000段以上の階段もそこで掘った巌で、奥の院などの堂塔も巌の上に作り、修行僧が掘った仏像も全て巌の中でのことです。
言ってみれば山寺自体が「巌山」なのです。
登って休んで汗が引いてから帰りは下りになりますが、何と下りの階段も老体にはきつく、やはり30分以上を要しました。
下ってからのご褒美は、山寺名物の玉こんにゃくの串です。
しょうゆ味で煮込んで、だしには山形特有のイカゲソ(するめ?)を煮込んであり、辛子を付けて行き帰りの苦労を味覚で忘れさせてくれる絶品です。
一つだけ難を言えば、数年前には一串に4つの玉こんが刺さっていましたが、物価高騰の折今回は一串3個だったのが残念でしたが。
普通に考えると意外に近くて身近な場所ですが、なかなか行っていない所ってあるもので、何と今回はその中から千葉の鋸山を見に(登りに?)行ってきました。
見た目が鋸の歯の様に凸凹している形状から通称でそう言われていますが、実際の名前は乾坤山というそうです。
乾坤という言葉を聞いて思い出すのは、お酒飲みには「乾坤一」という日本酒かもしれませんが、それも語源は同じく『乾坤一擲(けんこんいってき)』という言葉になります。
乾は天の意味、坤は地の意味、一擲はサイコロを投げる(放る)の意味で、解説すると天地を賭けて勝負する(博打する)という事になります。
その言葉を知ったのは、学生時代に好んで読んでいた中国の歴史小説の漢の劉邦と楚の項羽の戦いの中に、圧倒的な強さの項羽に対して何度も追い詰められた劉邦が、今しか勝てるチャンスが無いかもしれないと無謀にも強敵に挑む時の状況を『乾坤一擲の大勝負をかけた』と表現されていました。
その戦いはもともと項羽の部下だった韓信(韓信の股くぐりという逸話がある人です)他が、項羽は強くても部下を引き付ける力が無く、逆に劉邦は戦いは弱くても部下からの人望があって、韓信などの有力武将が劉邦側についた結果大逆転した楚漢の戦いの1場面で出てくる言葉でした。
今でも情景が浮かぶような言葉としての乾坤一擲のなかの乾坤が私のイメージです。
この戦いからは他にも『四面楚歌』や『虞美人草』など有名な言葉が多く残っています。
さてその乾坤山、どうしてその様に凸凹になったかというと、この山はほぼ凝灰岩から出来ていて、採掘の方法としては地下掘りする必要なく露天掘りで良質の石材を採掘できたことから、掘り易い場所を渡り歩くうちに凸凹の堀口になってしまったものと思います。
石材の場合は良い丁場(採掘場)の条件の他に、消費地までの搬出・移動の問題がありますが、ここはすぐに東京湾であり、また川便も充実していることから採掘後の運搬にはかなりの利便性があったものと思います。
そして大消費地が東京、横浜など身近に存在し、ここ鋸山の石は「房州石」と名付けられて横須賀港の港湾設備や靖国神社、早稲田大学構内などの石工事に多いに使われたようです。
凝灰岩はわが社の創業アイテムである松島石(野蒜石)や以前訪問し記載した栃木の大谷石、静岡伊豆の若草石などと同じで比較的柔らかかった為、機械化が始まる前の幕末や明治大正時代に大いに採掘していた様子が分かります。
採掘していた石工たちが掘り出した後に観音像を浮き出させた百尺観音や、足元の下を掘ってしまってまるで空中に突き出たステージになった地獄覗きなど、今では観光地化しています。
時代は下って建築利用石材の硬質化(花崗岩や安山岩などの硬い石が好まれるようになった)や環境保護などもあって1985年(昭和60年)の採掘を最後に以後掘られることがなくなったのは我われの松島石とほぼ同じ頃でした。
この鋸山、標高は329.5メートルで登山ルートも複数あり、初心者トレッキングには最高なのですが、実は頂上までのロープウエイもあり舗装路もあるので車でも行けます。
今回は車で行ったので苦労なく頂上からの景色を視覚と疲れない体で堪能する事が出来ました。
帰りは、こちらもなかなか行っていなかった東京湾アクアラインを通って海ほたるのパーキングに立ち寄り、あさりの塩ラーメンという地元グルメを今度は味覚と空きっ腹な胃袋で堪能してきました。
今回は少しだけ石のことばから本筋を離れた「書籍」執筆の話をさせていただきます。
昨年出版社の幻冬舎から提案があり、中小企業経営者の為の経営ヒントとなるビジネス書の著書作成を依頼されました。
私の方としても、会社の後継となるべき現役員や責任者そしてその後に続く若手に会社の歩んできた道筋を示し、そして今後は経営のバトンを引き継いでもらうためのタスキの役割として、今までの当社の経営判断とその経歴をまとめて書籍にすることに賛同いたしました。
また、後継者の為だけでなく、自分の歩みを自らふり返る絶好の機会でもあると思い、本の出版を決意しました。
最初の提案が昨年の2月だったのでほぼ1年がかりになりましたが、今年の1月23日に大手書店やAmazonにて全国販売が始まることとなりました。
幻冬舎編集スタッフや販促スタッフ、役割によってはデザインや校正メンバーなど複数のスタッフとの会合を重ね書籍の章立てから記事内容の進め方、ひいては書籍の題名まで複数会の打ち合わせで進行してきました。
そんな中での一番の衝撃は何とこの書籍の題名の「絶つ」経営 という事に決定したことです。
はじめは「たつけいえい」などという日本語は聞いたことも無く違和感を感じましたが、「絶つ」という漢字にするとその意味合いが伝わり、一時的な意味での「断つ」とは違って、既存意識や固定概念を絶つ重要性を強調される良いネーミングと思うようになりました。
確かに私の会社人生の歩み、そして事業の流れは「絶つ」という言葉に象徴されても良いかと思います。
個人の生き方としても天職であると思っていた教員の道を絶ち、父から譲り受けた建築石材業の市場である地盤を絶ち、まつしまメモリーランドという墓石業への進出もはかり、M&Aによる全国市場へ打って出たのも「絶つ」というフレーズに集約されると思い納得しました。
ビジネス本の執筆にはこのコラムの様に自由に何でも書けるものではなく、それなりにルールや規制もあるので出来栄えは自ら判断するものではありませんが、この度初めて出版本の発行の経験をさせてもらい、世界がまた少し広がった思いです。
いみじくも今年は辰年です。「絶つ」経営と別に掛け合わせたわけではありませんが、龍、起つ、発つ、立つ、建つ、経つ、裁つ、、、、いろんな「たつ経営」を連想して記憶していただけたらと思います。
昨年2023年秋に話題となった再開発ビルのオープン、麻布台ヒルズの見学をようやくすることが出来ました。
ここは再開発のスタートが1989年と言いますから計画からだと35年後、住民全員の話がまとまって事業として動いたのが2019年とのことなのでそれから4年後の完成という事になります。
こちらの概要はメインが森JPタワー1棟とレジデンスがAB2棟、そして低層の商業施設が1棟の計5棟の集合体となっています。
このような大型の再開発となるとやはり大理石や御影石など石材の活躍の場となります。
当社もレジデンスの各住居のキッチン周りにクオーツやセラミックのカウンタートップを納めさせていただいた関係もあり、この壮大な再開発全貌と各建築物を一度見てみたいと思っていました。
石材の使い方は国によっても違うし、オーナーや設計事務所によっても違います。
いろんな所で石材が施工された現場を見ると、その個性や特異性だけでなく、未来を思わせるような斬新性も垣間見られることがあります。
写真はレジデンスの入り口のサインですが、石の壁に同系色の金属でさりげないエントランスを表しています。
(ここが入り口です!という強い主張もなく、とても上品に感じます。)
そしてその奥が問題なのですが、入り口からカーテンのドレープのように奥までつながっていっています。
とても素敵な内装で上品な生地の布地なのだろうな、と思って近づいてみると、、、、
なんとそれは入口の外壁と同じ 御影石の飾り壁です!!!
石材そのものの模様や色合いを生かして、カーテンの生地のように小口に丸みを持たせ、そしてその連続配置によって、まさにカーテン生地に見せる。
なかなかすごい使い方です。
御影石の硬さを感じさせず、また色合いにも無機質な冷たさが無く、まるで爽やかな空気感も表現しているような石材の使用に ただただ唖然として眺めていました。
こんな感じをどこかで、、、、
「そうか、イタリアの教会や美術館で見た、大理石の彫刻の布地の風合いと同じ。
もっと言うとバチカンで見たミケランジェロのピエタ像の布の感じと同じだ。」
まるで芸術作品と同じ表現でエントランスを飾ってくれる。
新しい石材の使い方ですね。
そしてもう一つの衝撃は、商業施設内の床の石の使い方。
床に使用した大理石の色違いのランダム模様も斬新さがありましたが、それ以上にその石材表面を薄く削って、金色のメタルを張り合せて一体化したデザインには、現在の石の常識では考えられない未来性さえ感じます。
しかもこのメタルの向きもシンメトリーも無く、まるで床石に金の線を落書きしたようなデザイン???
大型の石材使用現場に行くと本当に飽きないです。
いろんなアイデアがインプットされ、また楽しくもあります。
ただし周りからは、石ばっかり見ていて不審に思われるかもしれないので、注意はしていますが。(笑)
ポルトで出会った驚きの書店の話をします。
最近自分でも自身の経営と半生記を著した書籍を上梓したことから、一般の書店の現状に関心を持つようになったのですが、今の時代は多くがネットでの書籍購入が増えて、大手で立地の良い書店を除けば一般書店は経営が難しく存続の危機にあるように感じます。
自分の本の売れ行きについては、出版社経由で定期的に報告が来るようになっています。
具体的な数字は言えないのですが、全国にある一般書店の約半数が加盟するPOSデータの共有方式により全書店の販売数とともに、インターネット経由の書籍の販売数が公開されます。
驚くことに日本全国の書店の販売総数とネット経由の書籍販売は、同数あるいは場合によってはネット経由の方が多いこともあり、いかに一般書店が大変かの一端を垣間見れます。
時代的に活字離れが騒がれて本の売り上げが激減している中で、更にネットでその半分近くをそちら経由になってしまえば、どんな老舗の本屋でも、たとえ全国展開の書店でも経営が厳しくなるのは異論を待たない状況と思います。
そんな本屋事情の中でのびっくり体験です。
ポルトにあるレロ書店がそうで「世界一美しい本屋」と呼ばれています。
私が行ったのは雨の平日、それも雨の少ないポルトガルにしては大雨模様の午前中でしたが、なんと入場するのに2時間待ちの行列が、、、、
それだけじゃないんです。
本屋に入るのに入場券が必要なのです。
予約もできますが、チケットに時間が書かれていて、11:00からの列、11:30からの列、12:00からの列、12:30からの列ともう4列も出来上がっていました。
入場料も5ユーロ(800円)って一冊本が買えるほどの金額です。
中に入れば凄まじい人だかりでゆっくり本を選ぶなんて感じでは全くありません。
人気の理由は書店の真ん中にある二階に向かう階段が天国への階段と言われる木製で且つアンチークの螺旋階段が、ハリーポッターの映画の中に出てくるような見事な造形と雰囲気を醸しているからです。
ハリーポッターってイギリスなのに何故って思っていると、その作者のJ・K・ローリングが一時期ポルトに住んで英語教師をしていた時に、この書店を訪れてその構想を練ったと言われているせいもあるようです。
それもあってか、店内にはハリーポッターの本が英語版、フランス語版、スペイン語版、ポルトガル語版、、、と豊富に在庫されてここで買ったというプレミア感も狙っているのかもしれません。
でも日本語版は展示が無かったので残念でした。
尚、店内で書籍を購入すると、先程の入場料5ユーロはチケット交換でその分値引きされますので、本屋としてもとにかく本を買ってもらいたいだけで、決して入場料で不労所得を得ようとしているわけではないようです。
その人気の元になった天国への階段と言われる螺旋階段ですが、実は当社でも大理石で何件か制作したことがありました。
ここの様に木材で作るのも凄く難しいですが、それを硬く加工の難しい大理石で作るのは難易度最高マックスの制作です。
1・円形(又は楕円形)であること。
2・それが上に傾斜していくこと。
3・そして捻りが加わる事。
この3つをいわゆる3次元で加工するのは、超難関中の難関。
この制作が出来るのは大手石材工場でもほとんど無い中、そして今のように3DCADや立体設計図面が無かった時代、上からの投影図と横からの投影図を組み合わせて何とか作って納めたことを思い出します。
その時も、ヨーロッパの旧い建物には大理石の螺旋階段があり、昔の職人に出来たのだから、我々にもできると工場を鼓舞して一体となって作り上げたものでした。
そのような、建築と芸術の中間のような技術があって、この世界一美しい本屋の人気も高まっているものと思います。
ポルトガルの第一の都市はリスボン、第2の都市はポートワインで有名なポルトになります。
こちらポルトで有名なのを石屋の視点から言うと、大理石や石灰岩の南部エリア(リスボン等)に対しての、花崗岩の北部エリアを代表する都市ということです。
その意味からすれば街並みもリスボンは石灰岩によるベージュ系カラーの街並み、ポルトは花崗岩によるグレー系カラーの色合いの街となっています。
そしてもちろん誰にとっても有名なのは、ワインの産地であることです。
ワインの原料であるブドウの育成に大きな影響を及ぼすのが、テロワールと言われる土壌の違いです。
石灰岩質や砂利質の土壌がブドウの成長に、環境上の厳しさやストレスを与えますが、不思議なことにそれが美味しく複雑な魅力を持つワインにつながります。
その意味でも港町ポルトから遡るドウロ川の上流両岸はまさにブドウの大産地であり、それがポートワインにつながっていきました。
今回はそのポートワインを寝かせて醸造するワイナリーを見学してきました。
ポートワインの特徴は樽熟成の途中でブランディーを加える酒精強化ワインと言われる種類であることです。
同じ酒精強化ワインの仲間にはスペインのシェリー酒も同類となります。
吞み口が濃厚で甘くコクのある味となり、アルコール度数もブランディーのおかげで20度位になります。(通常のワインは日本酒と同等で13度~15度程度です)
おそらく、フランスやイタリアと比べて気温が高く、生のワインが傷みやすかったので、ポート酒やシェリー酒が生まれたものでしょう。
ポルトの二大醸造所の一つ、有名なサンデマンのワイナリーに予約をして見学してきました。
このシルエットはワインのラベルにも出ていますが、ワイナリーの初代ドン・サンデマンの姿で、大学のマントと帽子を象徴しています。
ワイナリーの中は窓の無い石造りの壮大な空間になっており、静寂な中で通常は5年程度、長いものは50年、100年と熟成の変化を遂げています。
われわれ人間も、特に石屋人間は、毎日石の中に居るのですから、ポートワインの様に熟成されて、まろやかでコクのある人間に変わっていけないものかと自省してしまいます。
ここサンデマンのワイナリーで改めてポートワインの種類を学びましたが、簡単に言うと白ブドウから作られる「ホワイトポート」と黒ブドウから作られる(レッドポート)の2種あるが、その(レッドポート)の中で更に比較的短期間の「ルビーポート」と長期熟成で色も濃い「トゥニーポート」とあり、大きくはその3種を試飲させてもらえます。
それぞれに良さもあり好みも分かれるところですが、そのバラエティさも永く人々に愛される秘訣ではないかと思います。
われわれが提供する石材や墓石に関しても単一でデザインも同じ、差別化の無い商材だけでは飽きられてしまい永く続かないのかもしれません。
基本に沿った伝統を守りつつも、いろんな好みに合わせてバラエティさも用意することで永く愛されるブランド・企業になっていくのかもしれません。
イタリア、スペインに次ぐ石材の産地、ポルトガルでの石との遭遇その2になります。
最初の写真はさすが海洋国家、世界につながる大西洋からリスボン市内に続くテージョ川の河口にある、当時の検問関所の役割を持つベレンの塔です。
常に水に浸かっている為に、大理石などの水に弱い石では融解してしまうので、その用途には通常は花崗岩(みかげ石)が一般的なのですがこれはちょっと違うような?
硬い花崗岩は半面細工が難しく、円柱や飾りの石の精密な加工は近代にならないと出来ないはず。
雰囲気は凝灰岩? いやそれも耐水性はかなり弱いはず。
もっと近づいて城壁やお城の外構をよくよく見ると岩石の中に小さな粒があって、ひょっとすると礫岩?或いは砂岩や泥岩?
残念ながらそのお城の石を調べる機会が無かったのではっきりとは言えませんが、おそらく花崗岩でなく堆積岩(礫岩・砂岩・泥岩など)で作られたのではないかと思います。
そして細かな彫刻や細工物はポルトガルで一般的な石灰岩を併用したものかと思います。
そういえば、ポルトガルには日本でほとんど採れなくなった玄昌石(黒い硯の石のもとになる堆積岩、当社では創業の時に岩手県の玄昌石を主アイテムとして事業をしていた時もありました)もあり、われわれ石材業者は国産の玄昌石に対して、ポルトガル玄昌石と称して一時かなりの量の輸入をしていました。
やはりポルトガルはヨーロッパ屈指の石材産出国であり、その種類も大理石に終わらず、花崗岩、石灰岩、玄昌石、凝灰岩、砂岩などあらゆる種類の産地であることが連想されます。
次の写真は、世界遺産になったジェロニモス修道院の大伽藍。
こちらは遠くから見ても間違いなくライムストーン(石灰岩)です。
ベージュの単一の模様で、採掘も簡単で、加工もしやすくこの世界遺産にもなった大伽藍の建築にはうってつけだったと思います。
何とも壮大なパリのルーブル宮殿にも負けない巨大な建築物は、やはり産出量と加工の簡易さからこの石が選ばれたのでしょう。
そして最後は石屋の目から見れば、ポルトガルの石材=何と言ってもピンクの大理石=ローズオーロラという図式(連想ゲーム)が浮かんでくるほどに著名な石を街中でなぜか探している自分に気づきました。
そして、それが突然目の前に現れた時の衝撃は現地での最大のものでした。
模様や色合いの難しい高級な大理石の為、日本での使用はカウンターやテーブルなどの単体、又は少々多く使われてもトイレやバスルームの小部屋の壁や床程度しか使用してない中で、ビルの外壁全面(実はこの並びで5~6棟のビルがすべて同じ仕様でした)にこのローズオーロラが使われ、しかもそのピンク色もちょうど良い綺麗な柄で目の前に現れた時に、大理石屋の我々だけでなくともその圧倒するインパクトに誰もが驚くことと思いました。
更にはそのローズオーロラの赤色の濃手と薄手を見事に使い分けて、ビルの壁を見事にデザインしています。
やはり本物の石の産地での本物の石の使い方で本物の石の存在感は半端なくすごいものだと感心しきりでした。
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